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「昏い夜を抜けて…全483話完」
第六章 固執②

昏い夜を抜けて263

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 「……F4………、……ね」
 「ホント?……類だよね?私…………よ」
 途切れ途切れに聞こえる話し声が、『F4』、『類』と言っているように思えて、つくしは手すりに腕をかけて海を見たまま、背後を通り過ぎる客に意識を向ける。
 潮騒に紛れて聞こえる喧騒は間遠く、ポツポツと足元を照らす間接外灯はほの暗い。
 ただ黙って佇んでいると闇にまぎれ、自分がまるで船の一部になってしまったような錯覚をつくしに与えた。
 自分たちのおしゃべりに夢中になっている二人の通行人にとってもそれは同じことのようで、自分たちが他人の噂話をしているという疚しさもなく、平然とつくしの背後を通り過ぎ、少し離れた場所で立ち話を始め出した。
 「ん~、涼しい。ちょっと寒いかも」
 「酔いを醒ますにはちょうどいいじゃない」
 「ホントね。…でも、さっきの話本当なのかしら?」
 「まあ、セレブ婚なんて、バリバリ政略結婚だから。こんなゴシップ誌もあながち間違いってことはないんじゃないかとは思うわ」」
 「そういうあなただって、誰でも…ってわけにはいかないんでしょ?」
 「うーん、うちは所詮中小企業だし、花沢物産の御曹司なんてとてもとても」
 クスクス笑いあう声にはまったく悪気もなく、おそらく同じ船に当の噂の主が乗り込んでいることさえ知らないのかもしれない。
 実際、ダンスホールには出かけていっていたが、あとはレストランと部屋の往復のみで、まだ類がこの船に乗り込んでいることは周知されていなかった。
 SPも乗り込んではいるのだが、派手好きの司などとは異なり、類はそれほど大々的に鳴り物入りで出歩くことはほとんどなかった。
 「私だったら、あの花沢類と結婚できるんだったら、どんなことでも我慢できるんだけどな」
 「…って、この場合、彼女の方が浮気してたんでしょ?」
 「どうだろう?お互い仮面夫婦…じゃなくって、まるっきり政略上の婚約だって書かれてるわよね?」
 そっと盗み見ると、どうやら女性の一人が持っている雑誌を、船室の窓から洩れる灯りを頼りに二人で覗き込んでいるらしい。
 確か船倉の売店には、本屋も並んでいるはずだった。
 ソロソロと背後の二人に気が付かれないように、甲板を戻り船倉へと向かう。
 「…ねえ、あれって、さっきダンスホールで目立ってたカップルの女の人じゃない?」
 「え?すっごい美形と踊ってた人よね?…まさか、本物の花沢類だったとか?」
 「まさかぁ」
 クスクス笑う声を背後に、つくしの気持ちはすでに雑誌の記事へと向かっていた。





 …胃のムカムカが収まらない。
 元から細かった手足が痩せ細り、以前は太ることを怖れていたのに、今は見る影もなくやせ衰え醜くやつれた自分の姿に目を背ける。
 …なんで、こんなことに。
 覗き込むドレッサーの向こうの美也子はまるで別人だった。
 時折、現状のあまりのひどさと、つわりの辛さにお腹の子を憎らしくも思う。
 いっそ、皆が言う通り堕胎してしまえば、と思わなくもなかった。
 けれど…、時折お腹の中で動く胎動の兆しに、今まで彼女が感じたことがなかった不思議な温もりと、愛情のようなものが湧き上がる。
 …お母様。
 亡き母を思う。
 美也子を生んで亡くなった母も、彼女を妊娠した時にはこんな気持ちを抱いてくれたのだろうか。
 ふと、窓の外に差した眩しいほどの明るさに、美也子はフラフラと窓辺へと近づく。
 玄関に到着したらしい車のヘッドライトは来客を伝えていた。
 …まさか、類さんが?
 ありえない期待を抱く。
 しかし、たとえ類が来てくれたのだとしても、美也子の心を安んじてくれるための来訪ではないだろう。
 それでも、会いたい、そう思う。
 あの非現実的な美貌を目にして、現実の苦悩から逃れたい。
 その現実の苦悩こそ類から発端を発して、今の現状を作った一端を担っている男だと言うのに、美也子は今なお類が恋しかったし、彼に逢いたかった。
 『類との婚約破棄は決定事項です』
 冷たい女の声が耳元に蘇る。
 …ああ、いや、思い出したくない。
 あの日、類の両親が尋ねてきて、彼の母に宣告された日からよく眠れない。
 繰り返し訪れる夢は、彼女の眠りを妨げ、体調を悪化させていた。
 『夢を見たなら目を覚まさなければ、過ぎた夢はいずれ悪夢へと変わってしまうものですよ』
 …でも、どうしたらこの悪夢から逃れられるかわからないの。
 苦しくて、辛くて、哀しいのに、自分ではどうにもできない。
 再び吐き気が襲ってきそうな気配に、密閉された部屋にいるのが耐えられなくなって、美也子は部屋の空気を入れ替えさせようと、人を呼ぶ。
 「…誰か!誰か来てちょうだい」
 けれど、来客の忙しさなのか、何度声をあげても、隣の控室から人が来ない。
 呼び鈴を押しかけ、思い直して部屋の外へと出てみると、廊下の向こうが騒がしく人の気配がする。
 期待と不安が交差する美也子の目に、今もっとも会いたくなかった人物のうちの一人の姿が捕えられる。
 「美也子さん、こんなところに隠れてたのね」
 「……お姉さま」
 他家へと嫁いだはずの姉が、眉をひそめて自分を見返す。
 「何て姿なの。こんなにやせ衰えて、あなたったら相変わらずなんて愚かな子なの」
 心底呆れたような声音に、弱り果てていた美也子の反骨心が蘇った。
 「お姉さまこそ、実家に戻られているそうですね?それがこんな片田舎の別荘にいったい何の用なの?お義兄様が心配されるのではなくって?」
 どうせ実家に戻ってきたのだって、昔は羽振りが良かった婚家が斜陽で、その援助を願いに戻ったに決まっている。
 それなのに、元々折り合いが悪い妹の静養先にまで現れるとは何事なのか。
 よもや、美也子と類の婚約を見込んで、彼女にへつらおうと言うのでもあるまい。
 美也子の反抗的な嘲りに気分を害したのか、姉が小さく鼻を鳴らす。
 昔からこの姉は父の前では殊勝だったが、美也子には残酷だった。
 出来のいい姉、従順な妻を演じながらも、その実自己顕示欲が強く高慢なのは血筋なのか、同じ気質を持つ妹へと昔から敵愾心を隠しもしない。
 それでも、いつも一歩も二歩も美也子の前にいた姉が、花沢物産との縁組で妹に水をあけられどんなにか屈辱に感じていたか美也子も知っている。
 その姉がわざわざ顔を見せた意図など容易に知れた。
 「……花沢物産との縁組がダメになったそうね」
 「……ダメになんてなってないわ」
 「お腹の子を堕胎するそうじゃないの?」
 わかっていても痛いところをつかれで胸を抑える。 
 絶対にありえないことだったが、姉の前で惨めに泣き崩れることなんてしたくなかった。
 それなのに、この声の弱々しさが、湿った鼻声が彼女自身のプライドを傷つける。
 「…私のお腹の中には類さんの子がいるんですもの」
 姉がうんざりしたように大きく溜息をつく。
 同行していた使用人たちに目配せして下がらせ、手に持っていた雑誌を美也子へと差し出した。
 「…これ?」
 「見てごらんなさい。中ほどのページよ」
 言われる前にパラパラと捲ったページには、見慣れた男…類の姿と自分の姿が。
 それはいい。
 類とのことを取りざたされるのはむしろ本望だった。
 けれど、記事に取り上げられた真実や嘘が美也子を青ざめさせる。
 「…あなたの男性関係が取りざたされてるわ」
 「る、類さんだって!」
 「ええ、そうね。もしかしたら、花沢のジュニアがリークしたのかも、と思わなくはなかったけど、彼自身のことも書かれてるわね」
 つくしのこととは断言されていなかったが、それらしい女性との同棲や、他にも関係をもったとされる女性たちが取りざたされていた。
 だが、断然インパクトがあるのは、男性である類の女性関係より、彼の子を妊娠しているはずの美也子の奔放な男性遍歴の方で、ましてやその腹の子が、類の子ではない可能性が濃厚だなどと書かれてしまっては、いかに二人の間が冷え切っていて、あくまでも政略的なものでしかないかということがわかろうといもので。
 それだけならまだしも、お互いの奔放すぎる性生活が暴露されれば外聞が悪すぎる。
 企業には企業イメージというものがあるのだ。
 「そんな…こんな…、類さんだって」
 「…もうそんな言い訳をしてる場合じゃないのよ、いいかげん賢くおなりなさいな。たとえ、類さんが他の女性と同棲にしているにしても、あなたの不義がこれだけ大々的に取りざたされては、それも仕方ないと同情はあちらに集まるわ」
 …類さんが、あの女と同棲してるのは私のせいじゃない。
 そう言いたいのに、『他の男の子を妊娠している』というインパクトが与えるものに勝るものなどあるはずもない。
 「出生前DNA検査に応じられない以上、もう悪役はあなた」
 「…お姉さま」
 「名家の娘なら娘らしく、身の処置の仕方というものを学ばなければならなかったのよ。婚前交渉で妊娠だなんて、庶民でもあるまいに、恥ずかしいこと」
 姉の嘲る言葉が、誰かの言葉と被る。
 息を飲む妹の青ざめた顔に姉が優しげな声で、唇の端に笑みを浮かべる。
 「夢を見たのね、見果てぬ夢。昔からあなたは、夢見がちな子だったものね。…王子様の夢。バカみたい。あなたはシンデレラではなくって、愚かな姉娘。まさか、人魚姫よろしく泡にでもなるつもりなのかしら?」
 「……っ!?」
 「夢を見たなら目を覚まさなければ、過ぎた夢はいずれ悪夢へと変わってしまうものなのよ」
 …どうしてお姉さまがあの人と…類さんのお母様と同じことを言うの?
 気が付けば床に蹲って泣き崩れる惨めな自分がそこにいて、憐れむ姉の視線さえも身悶えるほどの激痛を美也子の心に与える。
 いつも気位が高く、反抗的だった美也子の惨めな姿に、さすがの姉も同情を憶えたのだろう。
 「…美也子?あなたの為でもあるのよ」
 「うぅぅ、……ぁあ」
 泣き咽ぶ美也子の背を撫で、姉が髪を撫でてくれた。 
 その手の優しさに、思わぬほどの安らぎを感じて美也子はなお嗚咽も洩らす。
 なのに…。
 「私はお父様に頼まれてここへ来たの。このままでは、もうすぐ堕胎することも難しくなってしまうわ。過ぎた夢はさっさと忘れてしまって、次の縁談の事を考えなければ。あなたは美しいし、まだ若い。今なら間に合うわ。きっと、お父様がもっと素晴らしい男性を見つけてくださる。あなたの夢はもう終わってしまったのよ」





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